さみしさ。

もし本当に劇場に来てくれていたなら、痛恨だ。どうして気がつかなかったのか。

僕たちの芝居は、きみの目から見てどうだったろうか、変わらないものをちゃんと握っていただろうか。
時間は過ぎて、たましいが削れていくようで、取りかえしのつかないことばかりだ。関わってくれる仲間に、下の世代の人間も増えて、あの頃とは違った種類の歯ぎしりも経験するようになった。
自分のさみしさの根のようなもの、喪失感の感触、作品の核となるそれが、もしかすると緩んでしまっているだろうか。

劇団というのはあらゆることを経験する場だとよく言うよね、まったく本当だと思う、この稽古場だけでもいろいろあった。芝居は人間と人間の関係の織りなす芸術だから、何かがこじれてしまえばもう修復はできない。真皮がむきだしになった。血も流れる。でも、人間はけっこう頑丈だ。時間の流れが大きく人を包んで癒してくれる。

それを僕がこうして書くことの、何という厚顔さ。くそ野郎だな、ごめん。
ちゃんと会って話をしたかった、また観に来てよ。今度こそは会いたいよ。

『あの映画を照らすライムライト』もできるだけ早くやれますように。
僕はもう声も出ないし動きも俊敏でない、疲れやすいが、あれは生きること自体が役作りになるような芝居だから、ちゃんと自分の生を背負って、前に進んでいこうと思います。

元気でね。またね。
喜びや悲しみについて、さみしさについて、またお話しできますように。

波田野

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